その日、次郎はゆっくりと目覚めた。このところ研究に忙しく外でゆっくり飯を食べる暇がなかった。久しぶりに今日は一日休むと決めた。
しかし、せっかくの休みでも意外と早く目が覚めてしまう。
「俺も歳かな」
次郎は独りごちた。
洗面所で顔を洗い、歯を磨きながら自分の顔を見る次郎。
疲れてるな。目は覚めるのに、瞼にはクマができている。
次郎はため息をつき、時計を見た。
まだ10時か。
よし、こんなに早いんだ、いっちょ行くか。
次郎は身支度を整え、外に出た。
曇天の空は、なんだか重そうだ。
俺の肩の荷と同じか…次郎は大通りで手を挙げタクシーを拾う。
「神保町の交差点まで」
「はい、かしこまりました」
タクシーが動き出す。パラパラと雨粒がフロントガラスに優しく当たる。
次郎は窓の外を眺めた。俺はどこに向かっているのか。答えは出ない。
「つきました。1170円です」
「釣りは取っといてくれ。缶コーヒーでも買いな」
そういうと次郎はスイカをタッチ。ピピっという音とともに、会計が終了する。勿論キッチリ1170円。釣りはなかった。タクシー運転手は訝しげながらも礼をいう。
次郎は、覆面智の前にいた。外待ちは4名。これなら待ってもいいだろう。次郎は食券を買い並んだ。既に本日のスペシャルメニューのオマール海老のまぜそばは売り切れていた。
しばらく待つと店内に入った。
「まだオマールいけるよ」
「え、じゃあぜひ」
次郎は追加で700円、合計1600円を支払う。
「釣りは…」
やはりオヤジには言えなかった。
「まだまだだな俺は」
次郎はまたも独りごちた。
チャッ、チャ。
チャッ、チャッ、チャ。
オヤジの湯切り音が響く。客はみなそれに耳をそば立てている。
「はいよ〜」
来た。歓喜の瞬間。今日はこの為にあると言っても過言ではない。
何と言う見事で豪奢なクリエイティブ。
これでもかと言うほどに溢れるオマール海老。これは1600円も頷ける。
とりあえず、オマール海老攻めだ。
次郎はレンゲでオマール海老を頬張る。
くお、何と言う…オマール海老だ…当たり前ではあるが。
まぜそばは少し中太麺のモチモチ系。
ズルズルッ。
海老の風味が、甘く、そして優しい。
さてと、混ぜるか。混ぜそばだしな。
次郎は麺を思い切り、飛び込みの選手が息を止めて飛び込むように麺をかき混ぜた。
ふぅ。このくらいか。
どれどれ。
ズルズルッ、ズルズルッ。
次郎は麺を啜る。
「ふぉ!これは由々しき事態…」
独りごちざるを得なかった。
かき混ぜることにより、海老の風味はまるで薔薇の園のように次郎を包む。そこに覆面智の出汁が混ぜ合わさり、横暴と癒しがない混ぜになったような不思議なカタルシスが次郎を包む。
そして、切れ切れになったチャーシューがたまに口の中で、オーケストラの打楽器のようなアクセントを響かせる。
う、うまい。
ズルズルッ、ズルズルッ。
ズルズルッ、ズルズルッ。
無心に啜る次郎。神は死んだ。ニーチェに言われずとも神は死に絶え、今まさにここに新たな救世主が誕生する。まさに輪廻転生。
「はい、出汁ね」
残り少ない麺の量を見計らい、オヤジが出汁を追加してくれる。
ふお、なんじゃこりゃたまらんぞ。混ぜそばとラーメンを両方とも味わえる至福。いや、これはもはや犯罪だ。悪魔サキュバスだ。
次郎は抑えきれず麺を啜る。
ズルズルッ、ズルズルッ。
ズズズズー。
阿波踊りの出汁スープとオマール海老がアンサンブルを奏でる。ヨーヨー・マのチェロのようにオマール海老の香りが辺りをたゆたい、そこにピアノのメロディーが静かに、しかし煌びやかに奏でられる。まるで教会に響くバッハのようなデュオ。
次郎はアンサンブルに任せるままスープを完飲した。それはまさに、いつのまにか飲んでしまったというような感覚だった。まるで記憶がその部分だけポッカリと抜け落ちてしまったような、そんな感覚。
「おやじさん、めちゃくちゃうまかったよ」
「ありがと。またね〜」
次郎は曇り空とは裏腹に晴れやかな気分だった。イイ休日になりそうだ。
自然に笑みが溢れる。
神保町の街にはいつもの喧騒が響いていた。
続く。
覆面智@神保町
言わずと知れたがんこ系醤油ラーメンの店。
しかし今は独自路線。出汁がいろいろ変わり常連を飽きさせない。今日はオマール海老。後味はフレンチのような余韻。絶品。
3.8次郎
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覆麺 智
東京都千代田区神田神保町2-2-12
https://tabelog.com/tokyo/A1310/A131003/13054078/