う、うまい。なんじゃこりゃ!
次郎は独りごちた。
今日のお通しは椎茸とひよこ豆のディップです。
皿にはトマトのオイル漬けとブラックオリーブが添えられていた。
パリパリだがしっとりしたトルティーヤ。少し塩見が効いていて、それだけでも十分つまみになるのだが…
そこに椎茸とひよこ豆のディップを載せ、更にセミドライトマトを添える。色味もさることながら、口内でいきなりこのセミドライトマトの甘酸っぱい味が弾ける。
更にはひよこ豆と椎茸のディップがしっかりとした食べ応えと深みのある味わいを口いっぱいに充してくる。これにしっとりパリパリの薄いトルティーヤがしっかりと後味を整える。
これはなんの酒にでも合う。いや、酒などなくとも良い。そう唸らせる味だ。それがお通しで出てくるとは…やるな店主。
店主は茶目っ気のあるビートタケシのモノマネが得意な元バンドマン。
彼はイタリアンと和から生まれた料理の寵児か、はたまたロッテの村田兆治投手か…まぁいいか。
はい、アサイー・オレンジ&マイヤーズラムのカクテルです。
題名が長くて忘れしまうこのカクテルは、その色と香りが独特だ。
顔を近づけるとまるでカカオのような匂いが鼻をつく。一口ストローで啜ると、口の中にやはりチョコレートのような味わいが一瞬咲いて、すぐさまオレンジの清々しい味わいが口の中を満たす。
くそ、これまたうまいじゃねーか。
奥さんが創るカクテルは常に驚きに満ちている。来るたびに新たな味が創作されて、なんだか毎回お得な気分になれると坊っちゃんは言ったとか言わないとか。
ふう。
一人で来たことを後悔した次郎。誰かと来ればこの多彩な料理をもっとたくさん味わえたものを…。そんなことを言っても今宵は始まらない。
よし、今夜は、赤ニシ貝ときのこのアヒージョ、厚切りロースハムステーキ、そして、極めつけは白はまぐりのボンゴレビアンコだ。
既に一人で食べる量を超えている感満載だが、仕方あるまい。
人生は一度きり。
この魔法の言葉で次郎はいつも後悔することになる。
しかし、しかーし、人生はやはり一度きり。
今も昔も結局はこの魔法の言葉の無限ループに人類は嵌るのだ。
とはいえ、このアサイーカクテル。
何度でも言おう、うまい。
カカオとオレンジのカデンツァ。これはいったい誰の奏でるアンサンブルか。私はそんなものは知らんが、そういふものに私はなりたひ。
はい、アヒージョね。
今日は、舞茸、平茸、エリンギと赤ニシ貝を入れてます。
味は和風ね。
ぐ、何という贅沢なビジュアル。
和風イタリアンの村田兆治が創るアヒージョは、多種のきのこにサザエのような赤ニシ貝の見事なコラボ。
エリンギにたっぷりオイルを浸して、口に放り込む。程よく焦げたエリンギのふさがザクッとした食感を楽しませ、同時にオイルとニンニク、トウガラシが三位一体で襲ってくる。まるで錬金術師を囲った贅沢な富豪的味わいが口内に弾ける。
そして、赤ニシ貝。
なんだこの柔らかさは!店の者を呼べぃ!
美味しんぼの海原雄山顔負けの叫び声を心の中で上げながら赤ニシ貝を頬張る次郎。
サザエのような歯応えと、海の味わいが寄せては返すさざ波のごとく口と心を満たしていく。
そこにアツアツのバゲットが併せて出てくる心憎さ。
今ここで、バゲットを愚弄する輩は極刑に処す!
くそ、ハムステーキとボンゴレが来たら俺はどうなっちまうんだ?
次回乞うご期待!
もしもドラマであれば前後編の前編ラストだ!
次郎は独りごちた。
はい、ハムのステーキね。
来たぞ後編!見事なピンクのロースハム。
付け合わせのマスタードソースをたっぷりつけて、次郎は一口頬張った。
む、このマスタード、甘い。
ハニーと合わせてます!
すかさず奥さんの声。
なるほどな。
ハムの味は昭和に生きた次郎には郷愁を誘う。それにハニーマスタードが合わさるとまるでアヴァンギャルド。新しきものは古く、古きものは新しく。業界用語で言えばシャレオツな味。
うまいぞ、このヤロー!
店主顔負けのビートタケシの口調で勝負する次郎。
メリークリスマス、ミスターローレンス!
パスタを茹でる合間に、応酬してくる店主。
やるな!
奴は料理しながら周りが見えている。
この先のパスタも期待できるぜ!
次郎は再びアサイーカクテルで喉を潤した。
はい、お待ちど。
ぐお!なんと贅沢にゴロゴロと。はまぐりが踊ってやがらぁ。
江戸っ子め組の頭は既に涙ぐんでいる。
くそ、このはまぐり、はまぐり汁が身に篭って、まるで小籠包だ。うまい!うますぎるぞ!
弾けた汁はたおやかな海と青い空を思い出させた。
智恵子は東京には本当の空がないと言う。安達太良山にある本当の空が。
次郎は本当のはまぐりを食べたことがないと言う。このはまぐりをおいて他に本当のはまぐりを。
そんな智恵子抄の妄想を膨らませながら、勢いよくアルデンテのパスタを箸で引きずりこんだ!
ズルズルズルッ!
ぐお!このボンゴレ、はまぐりの出汁が効きまくっていて、それに唐辛子とニンニクが見事に調和している。口の中では何が起こったのか一瞬記憶喪失になりそうだ。くるみとパセリがパスタの味に豊かな味わいを与えている。憎い。憎すぎる。
かの大岡越前守は言った。
罪を憎んで人を憎まず。
そして、次郎は言った。店主を憎んでパスタを憎まず。いや、むしろ憎むことなどできようか。もしも憎むとすれば、これまでこのパスタを知らずに生きてきた我が人生をだ。
次郎は独りごちた。
ゲフッ
ご馳走さま。
なんと贅沢な時間だったのだろう。
おい、店主、お会計。
はいよ。
5000円ね。
なんと、この幸せがたったの5000円。
まさに奇跡。出会った奇跡。グリーンか!
お後がよろしいようで。
じゃまた。
次郎は店をでた。
西麻布は今日もギラギラと賑やかだ。
しかし、あの空間だけはホッと暖かい。
サヨナラは別れじゃなくて新しい出会いの約束だ。
次郎の声は西麻布の黒い空に吸い込まれて消えた。
続く。
イタリアン@西麻布
内容は本文の通り。最高のホスピタリティで劇的にうまい和風イタリアン。
4.0次郎